2016年 12月 の投稿一覧

たまには中学英語

個別指導の学習空間,八千代大和田・佐倉臼井教室の小西です.

千葉県公立高校入試英語の会話文問題で以下のような英文がありました.

①I was excited to learn the shape of some kanji show the things they describe.

②I think by learning about Japanese culture, we can also learn about Japanese ways of thinking.

さて,正しく訳せますでしょうか.会話文と言えど侮ってはいけませんよという文です.①からいきましょう.簡単な部分は説明を飛ばします.「〜を学んでワクワクした」という訳までは誰でも出来ると思います.問題はそこから.learnは他動詞ですので目的語を取ります.しかし読み進んでいくとshowという動詞が出てきます.ここでちょっと考えると,learnの目的語はthat節であり,that節の動詞が showであるということが分かります.

I was excited to learn [(that) the shape of some kanji(S) show(V) the things they describe].

後ろもしっかり読まないといけませんね.describeは他動詞です.後ろに目的語がありませんので,the thingsの後ろに関係代名詞の目的格whichの省略です.theyはsome kanjiのことですので,「それらの漢字が表現するもの・こと」となります.全体の訳は「幾つかの漢字の形が,それらの表現しているものを示しているということが分かって私はわくわくした」くらいでしょうか.ちょっと日本語としては不自然なので自然にしておきましょう.「形からそれが表現する事柄が分かる漢字があるということを知って,とてもわくわくしました」くらいで良いでしょう.someは漠然とした複数を表しますから,「いくつかの」だとやはり奇異に映ります.

②まずthink that SVという形を思い浮かべましょう.これは皆さんご存知のはず.ここでもthatは省略されています.取り敢えず下のようにしてみましょう.

I think [(that) by learning about Japanese culture, we can also learn about Japanese ways of thinking].

しかしthatの直後にby〜という副詞の塊があります.これは気持ち悪いなと思って後ろに行くとやっとSVが出てきます.

I think [(that) by learning about Japanese culture(M), we(S) can also learn(V) about Japanese ways of thinking].

なんのことはない,that節の文頭に副詞の塊が打ち込まれているだけです.waysは道じゃなくて方法.訳は「日本文化について学ぶことによって,日本人の思考様式についても学ぶことが出来るのだと思います.」くらいでしょうか.Iやweはここでは訳に載せないほうが日本語としては自然です.特にweは(前後の文がないのでここだけだと分かりませんが)一般的な人々を表しているので「我々は」とはしない方が自然かと思います.

中学生,ひいては高校生でもですが,that節を始めとする英語の「マトリョーシカ構造」で躓く生徒が多いように感じます.短文ならまだしも,今回の二文は①については不定詞との兼ね合いや後半の関係代名詞の扱い,②はthat節の主語の前に長めの副詞があることによって中学生にはかなり見づらい文になっています.会話文なのでこの文が直接設問になっているわけではありませんが,普通の中学生はもはや勘で読むしかないレベルかもしれません.

私は英語は得意ではありませんが,たまに書いたり教えたりするととても楽しいですね.たまには数学以外の教科のことも書きたいと思います.

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常識を証明する

個別指導の学習空間,八千代大和田・佐倉臼井教室の小西です.

【問】連続する2つの整数$n,n+1$は互いに素であることを示せ.

常識ですが,改めて証明するのも大事かと思います.こういう論証の基本ですが,最大公約数が存在するならばそれは必ず1になることを示せばおしまいです.

2数の最大公約数を$G$とすると,$n=pG,n+1=qG$と表せます.2式の辺々を引き算することによって,$(q-p)G=1$が得られます.ここで$q-p,G$はともに自然数であることから$q-p=G=1$が言える.よって最大公約数が1であることが示せた.

こんな感じになりますか.あまり真面目に考えたことのないようなことだったので,奇異にうつったかもしれません.

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大人は非難されるくらいが良い

個別指導の学習空間,八千代大和田・佐倉臼井教室の小西です.

 なんでもかんでも子供任せにしていたら子供は成長しない.今日はそんなお話です.そうじゃないという人もいても良いし,僕も時と場合によって違う考え方をすることもあります.ですのであくまで1つの考え方だと思って聞いてください.進路を考えたりするときに取り敢えず「自分で決めなさい」と子供に選択を投げる指導者がたくさんいます.僕もある程度,軸になる部分程度はそうします.恐らくは自主性を育むというのが目的かと思います.しかしながら,私見ですが,子供に自由な選択を与えすぎると子供の自主性というのは育たないように思います.なぜか.たくさん理由はありますので思いつくものを幾つか書いていきましょう.

①知識量の問題
子供には自分の将来を見据えてものを決めるだけの知識がありません.あるいは自分が大人になっていくという実感がない,と言っても良いかもしれません.ですので,子供に何かを選択させるには当然周りの大人が適切な知識を与え,ときには進むべき道を示してあげなければいけないのです.

②信じる人がいないという問題
子供が,青年もですが,一番成長するのはどういうときでしょう.僕は「信じるべき人に出会った時」だと思います.正しいか正しくないかなんて分からないけど,なんかこの人に付いていこうと思う.そんな信じる心が十代の子供の成長を最も加速させるのだと思います.自分ですべての選択を任されるというのは,この信じるべき人との出会いを阻害します.何かあっても「自分で決めなさい」とだけ言う人に対して「この人に付いていこう」と思うでしょうか.強い力で「良いから付いてこい」と言う人に付いていきたいと思いませんか.結果がどう転ぶかは関係ないのです.十代の少年少女の心を最も成長させるのはこの他人を一度,0から100まで信じてみる気持ちなのだと思います.これは現代人が一番忘れてしまった気持ちかもしれません.確かに昨今は犯罪も増え(本当に増えているのかは知りませんし非常に疑わしいですが,そう世間一般で言われているのでそういうことにしておきます),人が人を信じられない気持ちも分かります.しかし,十代で信頼できる他人と出会い,結果はどうあれその人を信じてみるという経験を積まないと魅力ある人間には育たないはずです.

③非難する人がいないという問題
自分ですべて決めた子供が何かに失敗したとき,周りの人は「自分で決めたのだから自分で責任をとれ」と言うでしょう.本当のところは手を差し伸べるかもしれませんが,「自分で決めろ」という人からは「決めたことには責任をとれ」との言葉が決まり文句のように出てきます.子供は失敗するものです.大人でもそうなんですから子供ならなおさらです.ですので,失敗した時に非難する対象が存在しているということが大事になってきます.もしその決断が周りの大人の誰かしらから勧められたものだったとしたら,あるいは「信じて付いてこい」と言われた人だったらどうなるか.子供は「お前のせいだ」と言うでしょう.それで良いのです.非難する対象があることで子供の心の安寧は保たれます.この矛先が誰もいないと大変です.「自分で決めたんじゃん.俺知らんし」と言われたらどうでしょう.そのやりきれない思いはどこにぶつければ良いのでしょう.もっというと,「自分で責任を持って決めろ」と中学生に言う指導者の中には,もしダメだったときの非難の矛先が自分に向けられたくないから保身のために言っているように感じる人がたくさんいます.とても楽ですよね.無理だったら「お前が決めたんじゃん」といえばいい.自分は何も傷つかない.とてもずるいポジションです.しかし「自主性を育むため」とか「君の将来を考えて」という枕詞を前菜に乗せればあら不思議,自己愛でギトギトの豚骨ラーメンも高潔で繊細なフレンチに見えてしまうのですから.

④そもそも自由は自主性を育まないという問題
知識がない,考える道具もない子供にすべての自由を与えたところで自主性などというものは育まれません.これは断言します.何もかも自分のしたいように出来るところから「ああしたい,こうしたい」という強い思いが生まれるはずはないのです.だって今のままでも楽なんですから,無理して変える必要が無いのです.自主性というのは,行動を無理矢理決められた時にこそ育まれます.「こうしなさい」と迫られたらときに子供は「嫌だ」と思うかもしれません.しかし「嫌だ」と思ったらしめたもの.それは自主性の発芽です.自主性の始原というのは紛れもなく反抗心だと思います.反抗心が強く芽生えるから「いや,俺はこうしたい」と自主性が生まれる.そういうものだと思います.ちょっと趣旨は違いますが,大学受験でも同じような現象があります.大学受験で最終的に勝つのは負のエネルギーを持っている生徒です.家が貧乏だから国立大にしか入らせてもらえない,嫌いな奴が俺よりいい大学に行くのは許せない,高2のとき俺のことをバカにしたあの教師を見返してやる,,,そんなマイナスの感情が勉強に向かったとき,最終的には核弾頭のように爆発的なパワーを生み出します.つまり道が強制的に狭めら方がその道に行かざるを得ないから頑張るし,逆境に立たされたほうがそれを強く破壊してやろうというエネルギーが強く湧くのです.そしてそれは紛れもなく自主性であろうと思います.

 ざっと幾つか書いてみました.もちろん僕の考えは変わりますし,時と場合によっていろんな意見を言いますが,これも1つの僕の考えです.

今はちょうど冬の保護者面談期間です.何名かの親御さんにはこのような話をしています.面談の時間は決められていますので,時間が許せばという感じですが.面談のときは,愉快にお話出来るご家庭もあれば,ときに張り詰めた空気の中熱く議論を交わすご家庭もあります.しかしどの面談も僕にとってはとても楽しい.特に意見が食い違って,激論になるときは心の底から楽しいです.こんなに自分の子供のことで熱く話せるってやっぱ親って凄いな,勝てないな,って思います.しかしそんな面談が終わって保護者の方が先に出たりすると,そういう家庭の生徒は「うちの親,めんどくさいっすよね」と言います.僕は「確かにお前がそう思うのも分かるが,親御さんの言ってることが間違いじゃないことも分かるだろ?そういう気持ちを分かってあげられるだけで,ちょっと周りの見え方が違ってくるのだと思うよ.今日の面談.お前はじっと聞いてて,大人だった」と先日ある生徒に話しました.帰り際の横顔が少しクールに,そしてほんのちょっとだけ大人になっていた気がします.

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冬季講習がもうすぐ

個別指導の学習空間,八千代大和田・佐倉臼井教室の小西です.

 そろそろ冬期講習の時期ですね.高校生に関しては,特別なことは何もしません.追加で教材もあまり買いません.特に高3はこの時期に何か内容を増やしたところであまり意味が無いからです.12月末はもう受験の準備も粗方終わっているはずですので,基本的には今持っている知識でこと足ります.ですので,塾でやることは演習がメインになりますが,多くの生徒は過去問に取り組んでいますから,これも新たに何か足す必要はないのです.少し演習を増やす生徒はいますが,基本のスタンスとしては,「普段やっていることを高速で,高密度で」がモットーです.

 あと2ヶ月足らずで大学入試も本番の生徒が多く,緊張してる人もいるようです.最後まで,付いてきてくださいね.

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国語はまともに読みましょう

個別指導の学習空間,八千代大和田・佐倉臼井教室の小西です.

 国語の受験参考書を開くと,やれテクニックだの現代文は論理で読み解けるだのと言った安易な言説が流れています.ああいうたぐいの参考書(笑)で国語力が伸びるとは到底思えないので,国語に関してはあまり生徒に参考書を勧めることはしません.幾つかの比較的信用に足ると思われる参考書を1,2冊勧めてはいますが.

 例えば「この段落の主張は第一文で,そこから後は具体例だから軽く読みましょう」みたいなことが書いてあることがあります.まず安易に主張と例を2つに無作法に切り分ける行為が愚かだと思いますが,具体例を軽く捉えて読み流しているようでは国語力など到底付きませんし,何より作者に対して無礼です.国語の読解は最初から最後まで1文字も飛ばすことなく読みましょう.何が書いてあるか分からないところでは立ち止まりましょう.そして考えましょう.基本はそういうものだと思います.それを繰り返し繰り返ししていくうちに,少し読むのが早くもなるでしょうし,少し国語の成績も上がるでしょう.劇的に成績を上げる方法は,それ以上の伸びを阻害し,劇的に成績を下げることに繋がります.生徒と一緒に国語の問題を解くこともありますが,その際は必ず1文目から最後の文まで読み通します.それで劇的に国語の成績が上がるかというとそんなことはありません.真っ当に文章を読むことで長期的に得られるものの大きさは短期間での成績アップなどどうでもいいほど重要だと思います.一緒に生徒と文章を読んで,ただ読んでいるだけで,時として生徒の側からハッと気付くことがある.なんだそんなことかと.そういう空気を,もっと演出できたらと考えております.

散らかった文書になりましたが,今日はこんなところで.

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自己意識にとって美とは何か

個別指導の学習空間,八千代大和田・佐倉臼井教室の小西です.

 自己とは何であり,どのように向き合えば良いか.まず確認しておきたいのは,自己とは今そこに存在している自分自身である.よく「自分探しの旅」などと行って海外やらに旅立つ人がいるが,じゃあ「今そこにいるお前」は誰なんだよということである.確かこれは養老孟司の言葉だった.また,ネットなどで「会社や学校では本当の自分を出せない」とのたまい,既存の言説をさも自説のように傲慢に語る自分を「本当の自分」と認識している輩もいるが,「そこでいま文を書いているお前」はどこのどいつなのだ.今仕事や何かしらをしている公的な自分は偽りの自分であって,どこか別の場所に「本当の自分」なるものが存在するという認識は完全に誤っている.あらゆる情況,あらゆる対人関係の最中にあるとき,そのときどきすべてが本当の自分自身であり,自己である.仕事で生徒にものを教えているとき,事務作業をしているとき,家で酒を飲んでいるとき,本を読むとき,趣味に没頭しているとき,研究しているとき,そのすべてが「本当の自分」である.私は自己とはこのように本来混沌であり,その混沌性と全体性の中になにがしかの真理があると認識している.人間関係や職場関係,生徒関係で悩んでいる人がもしいれば,自己の混沌性と全体性を認めれば幾分か過ごしやすくなると期待できる.私自身は書き言葉と話し言葉の間には明確な線を引いているが,その「ものを書いている自分」と「誰かと話している自分」は同一であり,どちらも本当の私であり「自己」であると認識している.
 また,自己は全体性と同時に虚無性を帯びている.自己はどこにでもあり,そのすべてが自己であるが,同時に自己はどこにも存在しない.唯物史観とまでは言わないが,我々は自身の行動や思想を完全に自身の内部から規定しているわけではない.大きな囲いで言えば時代の趨勢や国民性,小さな囲いで言えばそのときどきに所属する集団のメンバーから期待された自分をそのときどきで演じているに過ぎない.例えて言うと自己とは係数が未定の線形独立なベクトルのようなものであり,そのときどきの社会的集団からの社会的要請に基づいて係数が決定し,1本のベクトルを形成する.つまり「自己」とは実は中身は空っぽであり,虚無性を帯びているといえる.
 しかしこの全体性と虚無性は無意識のうちに見事に共存しているのだ.人は周りの社会から期待された「と自分で思っている」社会性をそのときどきで演じるのである.つまり自分に期待されている社会性を推察するというところに「自己」は存在している.全体性と虚無性の波間に,ゆらゆらと揺らめいて消えてしまいそうな場所に,2つの自己認識界をつなぐ接点に確かにわれわれの当初考えていた「自己」は存在する.デカルトはこれを「我思う,故に我あり」という言葉で表現したのは紹介するまでもない.
 さて,ではこの厄介な二面性を持つ自己とどのように付き合っていけばい良いか.恐らく具体的な公式があるわけではない.難しい問題に平易な解を与える行為は愚行であり,信じるに値しない.自己認識の根幹にあるのはこのような混沌性と虚無性の両面が存在するという解釈を自身の内部に正確に与え,無数に存在する異なった自分の声を聞こうと耳を澄ます態度である.確か内田樹先生の本で読んだものだと記憶しているが,中世の騎士道教育のカリキュラムでは乗馬や弓,狩猟といったものを鍛錬したそうだ.これは現代では失われつつある自己意識を繋ぎ止めるための訓練でもあるといえる.乗馬は人間でない馬という生き物の声を聞こうとしなければ上手くはならない.馬の気持ちは決して理解はできないが,それをじっと耐え,馬が何を思っているのかに耳を澄まし続けるという鍛錬が必要になる.弓は自然の声を聞き取ろうとしなければならない.そのときの風の様子,天気,微妙な空気感で弓の軌道は若干なりとも変化するだろう.これも自然の声を聞くことは決して出来ない.だから我々は必死で耳を澄まし,その普通に生活を送っていては見過ごしてしまいそうな微々たる変化にも注意を払いながらじっと草木の声や風のうねりを聴こうとしなければならない.狩猟も同様に,非人間の声を,決して聞こえない声を聴こうとする,そんな宗教的な態度が必要になる.理解できないものの声に耳を澄ますことは極めて宗教的な行為だ.宗教の原初は死者を弔うことである.葬式や埋葬によって人間は生者と物質との間に「死者」という概念を生み出したが,これは宗教の最も原初的な執り行いなのだ.死者をまだ物質には成り下がっていないが生者ではないという特別な位相に置き,その声に耳を澄ますのである.当然死者の声など聞こえるはずはない.しかし聴こうとする.そのために葬式や埋葬,その後の四十九日法要などがある.死者に最も失礼な行為は「あの人はこうされたがっている」と決めてかかってしまうことだ.死者の声など聞けるはずがないのだから,「聞こえはしないけど必死に耳を傾け続ける」以外に生者である我々ができることはない.
 自己意識もこれと同様に,他者の存在に耳を傾けることである.しかし乗馬などと違うのは,耳を澄ます相手は自分自身であるということ.ものを書いている自分,会社の同僚と話している自分,数学をしている自分,ネットに書き込みをしている自分,それらのすべての異なる自己を半分他者として認識し,今この瞬間瞬間に存立している自分自身という立場からそれらの半分他者に向かって耳を澄まし続けるのだ.完全な他者でないぶん,この行為はさほど難しくはない.なので耳を澄ますだけではなく,半分他者との合一に向かうような心積もりになるだろう.他者としての自分自身,自己との合一.全体性と虚無性の認識を乗り越えた先に,半分他者としての自己との合一が存立するのだろうと思う.
 何も他者との合一は今に始まったテーマではない.古くはプラトンの時代から論じられているテーマだ.エンターテイメントの世界でも象徴としての自己と他者の合一性に踏み込んだ作品は多い.哲学者の千葉雅也氏のTwitterで拝見したが例えば今年最大のヒット作となった映画『君の名は。』では,高校生の男女の身体が夢の中で入れ替わることを用いて男女の自己と他者の合一性を描いている.自己と他者の合一は究極の恋愛の形であり古くから論じられているものらしい.作中に糸守湖という円形の湖が登場するが,作品の自己と他者,男女の合一というものを象徴する上でのヴァギナを模した円形の湖が作中の背景全体を貫くオブジェとして見る者の無意識下を貫くのは示唆的である.しかも湖は2つある.先ほどまでの話は,映画の立ち位置で言えば主人公の瀧が今この瞬間の自分自身としての自己,もう一人の主人公の三葉が半分他者としての自己である.
 最後になるが,現代は生きる目的が見出しにくい時代だと言われる.生きるため,金を稼ぐためだけに働いているという疎外を感じている人は多いし,ネットの掲示板では物知り顔の匿名論者が冷徹な論理と学校で習うレベルの知識をさもこの世の真実であるかのごとく振りかざし悦に浸っている.無味乾燥とした知識が支配する昨今の世界において,自己認識を深めることは生きる目的を見出すきっかけになるとなんともなしに私は感じている.「人は正しい知識だけでは生きていけない」とは,保守派の論客として有名な西尾幹二の言葉である.大仰なタイトルで駄文を書き連ねてしまったが,現時点では分かるはずもない「自己とは何か」を相手にし,思いを馳せ,耳を澄まし認識しようとする先に一筋の生の目的と充足感,そして何よりも「強さ」を見出だせるのなら,今回のこの駄文にもなにほどかの意味を与えられるのだろう.

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