2017年 4月 の投稿一覧

響〜小説家になる方法〜 雑感

個別指導の学習空間、佐倉臼井・八千代大和田教室の小西です。

先日、ある先生からおすすめ頂いてある漫画を買ってきました。「響〜小説家になる方法〜」という漫画です。今年のマンガ大賞を受賞した作品で、現在6巻まで刊行されているのですが、おすすめいただいたからには全部読まないとなと思い、全巻購入してその日のうちに全部読みました。個人的には面白かったです。

以下ネタバレやらなんやらかんやら書きますので、まだ読んでない人でネタバレされたくない人は引き返して下さい。

物語は小説を書く天賦の才を持つ女子高生の響が、ある出版社の新人賞に申し込んだ1本の小説からすべてが始まります。メインのストーリーは主人公の響の圧倒的な才能のせいで周りの人間を巻き込んで展開していく人間ドラマでしょうか。響は自分の感性を信じている人間で、それをとにかく貫くという人間なのですが、それで周りの大人や小説家なんかを感化していく様は見ていて気持ちがいいですし、かっこよくもあります。しかしタイトルの「小説家になる方法」というのはちょっと誤解を与える文言です。これだとまるで最初は頼りなかった主人公が成長していく物語かなって思ってしまいます。しかし、本作の主人公響は最初からステータスMAXの状態で登場します。ジョジョで言うと承太郎が最初から「あ、俺時止めれますけど」って状態です。最初から「歴史を変えるレベルの才能」という扱いです。現実で言うと三島由紀夫や太宰治のレベルとして扱われています。それで〜小説家になる方法〜と言われましても。。。。たぶんこれからライバル的なキャラとか、今まで雑魚だったキャラが一生懸命頑張って小説家デビューしたりしてくるのでしょう。もう1つ気になるのは響のキャラです。「天才」を描きたかったのでしょうが、キャラがなんか薄っぺらく感じます。破天荒な性格の響は人気小説家に初対面で顔面に蹴りを入れたり、芥川賞の授賞式で記者の顔面にマイクぶつけたり、その帰りに踏切の中に入って電車止めたりと無茶苦茶な行動ばかりするのですが、ちょっと慣れてくると冷めてくる感もあります。実際、評価があまりよくない人達の言ってるのもこの辺です。

ここからは僕が読んで感じたことを2つ書きます。一つ目は、これは「死を考えさる無力さ」を考えさせる漫画であるということ。僕はこの漫画を読んでいてずっと「死とは何か」とか「どうやって死ぬか」ということばかりが頭に浮かびました。僕だけかもしれませんが、その理由を考えてみました。それは響のキャラ設定の無茶苦茶さにあります。響は歴史を変えるレベルの、三島由紀夫に匹敵するレベルの天才小説家です。それを「描く」ということがどれだけ難しいか。恐らく常人には不可能だと思います。天才文学者の枠を常人が正確に捕らえて、それを漫画というレイアウトで表現するというのは普通に考えてできっこありません。できるならそこに描かれた文学者は恐らく天才ではなく、常人が想像することが可能な疑似天才文学者です。つまり僕は、作者が響という天才文学者を描こうとする限界を作中に感じとったわけです。これは響が文学者だから起こる苦悩だと思います。もしこれがサッカーやバスケの漫画なら同じことにはならないでしょう。サッカーやバスケが低俗なわけではありませんが、スポーツの上手さはある程度は数値化可能です。センスというところでは数値化不可能かもしれませんが、そもそもの身体能力などは数値化できるからです。つまり、フィクションにしたときに天才を描きやすい。ところが文学者はどうでしょう。天才性を数値化する基準が、少なくとも文学を研究対象としていない人間からしたら、存在しません。フィクションにしたときに、響の天才性は表現することが非常に困難なのです。というか不可能に近い領域だと思われます。
「三島由紀夫がどんな作家で何を考えていたか」を正確に言える人間がいるかどうか考えてみて下さい。恐らく絶無ですよね。もし「言える。俺には分かる」という人がいたら、同じレベルの天才か、ただの勘違いエセ批評家のどちらかです。文学者の天才性はフィクションで表現することには限界がある。これをどう克服するかというと、作者は響に極端な暴力性と非社会性を纏わせるしかなかった。文学的才能=暴力性と安直に結びつけてしまった。ここに越えられない壁がある。
そしてこれは、「死を語ることの不可能性」に酷似していると僕は思います。死というのは誰でも経験する事件ですが、誰もその実態を知りません。死とは逃れられないにも関わらず語り得ないもの。「生の側からは死を語ることはできない」という領域から人間は脱出できない。この「死の到達不可能性」と「天才の未踏性」が妙に重なる気がするのです。
なぜでしょう。1つには漫画の中にも死を連想させる台詞がたくさん出てきます。「太宰も言ってたでしょう。傑作の1つでも書いてから死ねって」、「私は死なないわよ」、「どうやったらこんな死に方ができるんだ」、「生まれ変わりがあるのなら、お嫁さんに来て」、「次だめなら死のう」などなど。正確じゃない台詞もありと思いますが、同趣旨のシーンはあります。恐らくこの手のエピソードは、文学者には自殺している人が多いから作者が自然と盛り込んだのでしょう。御存知の通り文学者には自殺で生涯を終えた人が結構います。太宰治、三島由紀夫、芥川龍之介、川端康成、などなどです。特に太宰は何回も女性と一緒に心中しようと自殺を図り、未遂に終わっています。最終的には自殺しますが。太宰の初期の小説には「魚服記」という変身譚があります。父親に犯された娘が吹雪の中外へ出て、滝に飛び込んで鮒に変身して死ぬ、という話なのですが、吉本隆明はこれを「死への強い願望」だと考えていました。

無意識の中にあるその強い願望が動物や虫への変身譚の奥にあるものだと考えます。そんなに強い願望でなければ、人間から人間への変身にとどまるでしょう。<中略>動物へ変身しちゃうっていうところまで徹底的に一人称のように描写してしまうことの中には、たいへん強い死への願望みたいなものがあるんじゃないかと思います。

吉本隆明『未収録講演集8〜物語と人称のドラマ〜』

太宰治論(P277より)

もちろん本当かどうかは僕は分かりませんが、太宰が生と死の「境い目」をふらっと超えてしまうような、そんな作家だったのは確かだと思います。

 太宰治は紛れもなく国民的作家ですから、この感覚を天才的作家のそれだと考えてみると、実は響の行動はまさにその通りのものだと言うことが分かります。暴力性に安直にキャラ設定を結びつけてしまったのはいただけませんが、この「生と死の境い目」をふらっと超えていくような雰囲気は響は持っていますし、何よりそういう行動も多少大げさではありますが何度かしています。そしてそれらは暴力性とは切り離して考えられるものです。この点に関して、響の天才性はしっかり表現されているのではないでしょうか。

 もう1つ響の天才性がよく表現されている部分があります。それは「怒り」です。響は異常な暴力性を持っていますが、それは「怒り」の感情に突き動かされてであることが多いです(喧嘩を売られて勝っただけ、というシーンも多いですが)。我々は「怒り」とは正直みっともないものだと考えています。人様の前で顔を赤くしてブチ切れたり、暴力を振るうのはみっともないですよね。僕もそう思います。しかし怒りとは人間の感情の中でも最も純粋なものの1つなのです。ここからは西尾幹二の全集14巻、『人生の深淵について』に詳しいのですが、人は本当の意味で心の底から怒りを発することはまずありません。日々のイライラに悩まされることはどんな人でもあると思いますが、政治的効用を期待しない純粋な怒りを発する人はほぼいないと思います。例えば会社の労働環境が良くなくて労働者がストライキに出たとしましょう。これは俗に労働者が「怒りの声」をあげたわけですが、この「怒り」とはなんなのか。少なくともこの場合、「怒り」というのは政治的目的達成の手段として用いられています。ここだと「労働環境の改善」ですよね。その目的を達成するために計算ずくで導入された「政治的怒り」です。政治的怒りは計算高く作らなければあまり意味がありません。何故ならストライキで怒りの声をあげる人々に取って重要なのは怒ることではなくて、労働環境を改善することが最も大事だからです。ですが、計算高い怒りがほんとうの意味で純粋な怒りだと言えるのでしょうか。政治的な怒りというのは持続性がなければいけません。持続的にやらないと目的が達成されないからです。一瞬怒ったくらいで物事は変わりませんもんね。怒り続けないといけない。しかしながら、怒りの純粋性はそれが発露した瞬間にしか存在しません。怒りとは元来は突発的で、理性を含んでいない感情のはずです。西尾は「それだからこそ怒りには人間のある純粋性が看取されるのである」と言います。

怒りはある程度持続すれば、すでに純粋ではあり得ない。それは妬みとか焦りとか怨みとか憎しみとかに秘かに席を譲る。

西尾幹二全集14『人生論集』P14

響の感情は西尾の言う、まさに純粋な「怒り」だと思います。友のために怒るシーンも多いのですが、それも含めて響の怒りは「世界と自分との齟齬に耐えられない」という怒りだと感じます。政治的目的達成を第一としない、完全に一人称視点の怒り。その瞬間の自尊心の欠落や、世界と分かり合えないことへの憤りを一瞬で発散させる。それがたまたま暴力性を介して発露する。見ているとそんなふうに見えてくるのです。その証拠に一通り相手をぶん殴り終わったら響はかなり冷静に戻ります。怒りの純粋性を失ったら怒り自体が消えるのです。

 この2つを見ると、響というキャラクターは当初思ったよりも非常に「天才性」を良く表現できたキャラクターなのかもしれない、と感じられます。今後どのようにストーリーが進んでいくのか気になりますが、引き続き読んでいきたい漫画であることには違わないです。

 僕はこういうことを一通り考えた後に「漫画を読むのも良いものだな」とつくづく思います。読んだもの、見たものに対して、取り敢えず言葉を尽くしてみる、という態度。何かを「良い」「悪い」と判断する基準は必ず根本に非言語的・非論理的領域を内包しています。いつかは「語り得ぬもの」に帰する。しかし、そこに接近しようとする試みは忘れないでいたいものです。

 さて、僕はそろそろ勉強に戻ります。最近勉強欲が湧いてきました。また何か書けるタイミングになったら書こうかと思います。僕はあまり勉強が好きではありませんから、ゆっくり、自分のペースでやることにします。ではまた。

 

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祀り

個別指導の学習空間、四街道東・佐倉臼井教室の桑原です

いやー最近あったかくなってきましたね。
そんな最中体調崩してしまいました
そのせいで絶好の花見シーズンを逃してしまいました。。。残念
さて花見についてですが、もともと平安時代から豊作祈願の行事として行われていたそうな。
桜にも語源が諸説あって、「サ」は田んぼの神様、「クラ」は神様の座る場所という意味があり、「サクラ」には田んぼの神様が一息つく場所という意味があるそうです。

日本の祭りは元来豊作祈願を目的とするところがありました。新嘗祭などですね。
今では屋台を廻ったり神輿が担がれたり盆踊りを踊ったりと、エンターテイメント性の強い面が目立ちますが、歴史があって時代によって意味が変化して行くものなのですね。

明日は研修会!行ってきます

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死生観 ~人の命に価値はあるか.生きていることの「強さ」とは~

個別指導の学習空間,佐倉臼井・八千代大和田教室の小西です.

 人には誰でも死生観というものがあります.僕の死生観について少し書きます.読み始めた人は必ず最後まで読んで下さい.最初だけ読むと僕がただの非人権主義のクソ野郎という結論で終わってしまいますゆえ(笑).

 たまに,ちょっと精神が不安定な生徒や知り合いからこんなことを言われます.「私ってなんで生きてるんだろう」とか「私の命って価値ないのかな」などと言った言葉です.これを通して僕の死生観をちょこっとだけ話せればと思います.まず,大前提として僕の考えでは人の命に価値などありません.ちょっと残酷かもしれません(残酷でないことは最後まで読んでいただければ分かります)が,僕は本気でそう思っています.我々は母親の身体を通して勝手にこの世に生まれてきました.勝手にです.別に僕の意識でなくても,他の人の意識でも良かったはずなのにたまたま僕という人間がなんの因果もなく生まれました.そして生まれてから80年も経てば死んでしまいます.僕1人死んだところで何も世の中は変わりませんし,世界は回り続けます.個人単位で考えれば(例えば恋人や家族),僕は必要な価値ある人間かもしれませんが,突き詰めれば勝手に生まれて勝手に死んでいくだけの存在です.そこに何の因果も必然性もない.「誰かの命には価値があって,誰かの命には価値がない」と考える事のほうが僕としては馬鹿げているなと感じます.なら最初から全部等しく価値のないもの,勝手に出てきて勝手に消えていくものだと考えたほうがかなり気持ちが楽です.
 そもそも価値とはなんでしょうか.辞書で引いてみましょう.価値とは「その事物がどのくらい役に立つかの度合い。値打ち。」あるいは「哲学で、あらゆる個人・社会を通じて常に承認されるべき絶対性をもった性質。真・善・美など。」という意味です.経済的な価値もありますが,ここでは関係ないので省きます.もし人の命に「価値」があるのならば,1つ目の意味について,僕らは何かの役に立つために生まれてきたのでしょうか?もっというと何かの役に立たなければ死ぬのですか?違いますよね.仮に今現在何かの役に立っていない(と考えている)人はいたとしても,その人は生きるのです.何かの役に立っていなければ生きちゃいけない世界なんてクソ食らえじゃありませんか.2つ目の意味について,我々は「あらゆる個人・社会を通じて常に承認され」ていなければいけないのでしょうか?承認されなければ存在してはいけないのでしょうか.違いますよね.もう既に我々はなんの承認も要請もなくここに存在しているのです.因果も必然もなくただここに「ある」のです.何ものの承認をも必要とはしません.なので僕の考えでは人の命は「価値」と言われるものの条件を満たしていません.ですので人の命は平等に価値を持っていないと考えます.誰かの命には価値があって僕にはない,と人間同士に序列を付ける行為よりはよほど倫理的だと思いますし,「全員の命には等しく価値がある」という空を掴むようなお話よりは現実的だと思います.しかし勘違いしないで頂きたいのは「価値が無いから人を殺しても良い」という考えは決して正しくないということです.僕が言う「人の命は無価値だ」というのは全体的に見た場合の話であって,個人レベルで考えれば「あなたがいるとちょっと楽しい」とかそういう関係性はあるはずです.それを他人が無闇に壊していいはずがありません.自分の命も同様です.この辺のことはもっと言葉を尽くさなければならないのでしょうが,今の僕はあまり説得的な言葉は持ち合わせていません.今後何かの拍子に書くかもしれません.
 本題はここからです.人の命には平等に価値なるものはない,という地平にまず立つ.そこに来るまでにいろいろな悩みがあるでしょう.しかしまずここの地平に立たなければ,「じゃあ俺は何がしたい?」という問いかけに至らないのです.ぼんやりと「人の命は価値あるもの」と捉えているよりも実存的な問です.「①我々の存在には何の因果も何の必然性もない.みんなただ生まれてただ死んでいくだけだ.じゃあ,それは分かったから,俺はいったい何がしたいのだ?」という問いかけを自分に出来るか.この問を内在できるかどうか.それが生きていく上での「強さ」なのだと僕は考えます.この問いかけから生まれた行動や規範は,依って立つものがないぶん,幾分か強いです.「自分より(社会的に)優れている(と主観的に感じる)人間」が自分の前に現れたとき,価値論を今まで振りかざしていた人にとっては「自分より価値のある人間が現れた」となって自分の存在意義が揺らぎます.行動規範や倫理観もそれらの人にとっては価値論を土台に作られていますので,当然いろいろなところでガタが来て,その存在が揺らぎます.これが僕の言う「弱さ」です.ですが一方で価値論を通り抜けた場合,①のような問を投げかけて暫定的な解を見出した人間にとってはその答は他人と自分との優劣の中では決して揺るがない強さを秘めているのだと,僕はそう思います.
 結局のところ,人の生き死になどと言うのは死んでみないとわかりません.生の側から死を語ることは出来ません(繰り返しますが,だからと言って死んでみればいいというわけではないですよ).なので死生観や哲学というのは「強さ」を得るためのものだと考えます.その人なりに論理を尽くし,言葉を尽くし,この「強さ」を得られるのならどのように考えても良いのだと思います.今回は,僕の死生観について書きましたが,突き詰めれば僕が考える「強さ」とは何かというお話でありました.

千葉の塾なら個別指導の学習空間

新年度の始まり!!

どうも!!
学習空間八千代台教室・習志野藤崎教室の高橋です。
ついに新年度スタートですね。
前年度に大幅成績アップを果たした人も、あまり勉強に力が入らなかった人も、新たな気持ちでスタートしましょう。
今年度の目標はもうきめましたか?
私は今年は理科に力を入れてみようと思います。(去年は社会、おととしは数学に力を入れましたので)

塾講師と聞くと、一般的には「勉強オタク」「受験マスター」「高学歴」と言ったイメージがあるようですが、
私が実感として思うのは、「心から勉強を楽しんでる人が多い」ということです。
ポイントは、このことは「生徒を志望校に受からせるための指導力や知識量」とは別次元の話だということです。
もちろん、塾ですから生徒を受験に受からせることは大切です。
しかし、私の身の回りにいる先生たちは、それはそれとして「自分の勉強を本当に楽しんでいる」と思います。

たとえば小西先生に数学のことを語らせたら何時間でも話せるだろうなぁ、とか
川田先生の日本史の引き出しは半端ないなぁ(そんな川田先生は今年は古典に力を入れるそうです。楽しみ!!)、とか

受験生にとっては志望校合格がなによりも大切でしょうから「のんきに勉強を楽しんでる余裕なんてないんだよ!!」と思うかもしれません。でも、合格するためだけに頑張った受験で入った志望校はどことなく空っぽな感じがします(特に大学受験生はこの傾向が強い)。
今一度、勉強の楽しさを再発見してみてはいかがでしょうか。分からないことが分かるようになるのですから、普通に考えれば面白いはずなんですよ。本当に。その先に合格があるからこそ、入学後の学校生活が充実するのです。

なんか、まとまりのない文章ですが、今年度もよろしくお願いしますね!!

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