個別指導の学習空間、佐倉臼井・八千代大和田教室の小西です。
先日、ある先生からおすすめ頂いてある漫画を買ってきました。「響〜小説家になる方法〜」という漫画です。今年のマンガ大賞を受賞した作品で、現在6巻まで刊行されているのですが、おすすめいただいたからには全部読まないとなと思い、全巻購入してその日のうちに全部読みました。個人的には面白かったです。
以下ネタバレやらなんやらかんやら書きますので、まだ読んでない人でネタバレされたくない人は引き返して下さい。
物語は小説を書く天賦の才を持つ女子高生の響が、ある出版社の新人賞に申し込んだ1本の小説からすべてが始まります。メインのストーリーは主人公の響の圧倒的な才能のせいで周りの人間を巻き込んで展開していく人間ドラマでしょうか。響は自分の感性を信じている人間で、それをとにかく貫くという人間なのですが、それで周りの大人や小説家なんかを感化していく様は見ていて気持ちがいいですし、かっこよくもあります。しかしタイトルの「小説家になる方法」というのはちょっと誤解を与える文言です。これだとまるで最初は頼りなかった主人公が成長していく物語かなって思ってしまいます。しかし、本作の主人公響は最初からステータスMAXの状態で登場します。ジョジョで言うと承太郎が最初から「あ、俺時止めれますけど」って状態です。最初から「歴史を変えるレベルの才能」という扱いです。現実で言うと三島由紀夫や太宰治のレベルとして扱われています。それで〜小説家になる方法〜と言われましても。。。。たぶんこれからライバル的なキャラとか、今まで雑魚だったキャラが一生懸命頑張って小説家デビューしたりしてくるのでしょう。もう1つ気になるのは響のキャラです。「天才」を描きたかったのでしょうが、キャラがなんか薄っぺらく感じます。破天荒な性格の響は人気小説家に初対面で顔面に蹴りを入れたり、芥川賞の授賞式で記者の顔面にマイクぶつけたり、その帰りに踏切の中に入って電車止めたりと無茶苦茶な行動ばかりするのですが、ちょっと慣れてくると冷めてくる感もあります。実際、評価があまりよくない人達の言ってるのもこの辺です。
ここからは僕が読んで感じたことを2つ書きます。一つ目は、これは「死を考えさる無力さ」を考えさせる漫画であるということ。僕はこの漫画を読んでいてずっと「死とは何か」とか「どうやって死ぬか」ということばかりが頭に浮かびました。僕だけかもしれませんが、その理由を考えてみました。それは響のキャラ設定の無茶苦茶さにあります。響は歴史を変えるレベルの、三島由紀夫に匹敵するレベルの天才小説家です。それを「描く」ということがどれだけ難しいか。恐らく常人には不可能だと思います。天才文学者の枠を常人が正確に捕らえて、それを漫画というレイアウトで表現するというのは普通に考えてできっこありません。できるならそこに描かれた文学者は恐らく天才ではなく、常人が想像することが可能な疑似天才文学者です。つまり僕は、作者が響という天才文学者を描こうとする限界を作中に感じとったわけです。これは響が文学者だから起こる苦悩だと思います。もしこれがサッカーやバスケの漫画なら同じことにはならないでしょう。サッカーやバスケが低俗なわけではありませんが、スポーツの上手さはある程度は数値化可能です。センスというところでは数値化不可能かもしれませんが、そもそもの身体能力などは数値化できるからです。つまり、フィクションにしたときに天才を描きやすい。ところが文学者はどうでしょう。天才性を数値化する基準が、少なくとも文学を研究対象としていない人間からしたら、存在しません。フィクションにしたときに、響の天才性は表現することが非常に困難なのです。というか不可能に近い領域だと思われます。
「三島由紀夫がどんな作家で何を考えていたか」を正確に言える人間がいるかどうか考えてみて下さい。恐らく絶無ですよね。もし「言える。俺には分かる」という人がいたら、同じレベルの天才か、ただの勘違いエセ批評家のどちらかです。文学者の天才性はフィクションで表現することには限界がある。これをどう克服するかというと、作者は響に極端な暴力性と非社会性を纏わせるしかなかった。文学的才能=暴力性と安直に結びつけてしまった。ここに越えられない壁がある。
そしてこれは、「死を語ることの不可能性」に酷似していると僕は思います。死というのは誰でも経験する事件ですが、誰もその実態を知りません。死とは逃れられないにも関わらず語り得ないもの。「生の側からは死を語ることはできない」という領域から人間は脱出できない。この「死の到達不可能性」と「天才の未踏性」が妙に重なる気がするのです。
なぜでしょう。1つには漫画の中にも死を連想させる台詞がたくさん出てきます。「太宰も言ってたでしょう。傑作の1つでも書いてから死ねって」、「私は死なないわよ」、「どうやったらこんな死に方ができるんだ」、「生まれ変わりがあるのなら、お嫁さんに来て」、「次だめなら死のう」などなど。正確じゃない台詞もありと思いますが、同趣旨のシーンはあります。恐らくこの手のエピソードは、文学者には自殺している人が多いから作者が自然と盛り込んだのでしょう。御存知の通り文学者には自殺で生涯を終えた人が結構います。太宰治、三島由紀夫、芥川龍之介、川端康成、などなどです。特に太宰は何回も女性と一緒に心中しようと自殺を図り、未遂に終わっています。最終的には自殺しますが。太宰の初期の小説には「魚服記」という変身譚があります。父親に犯された娘が吹雪の中外へ出て、滝に飛び込んで鮒に変身して死ぬ、という話なのですが、吉本隆明はこれを「死への強い願望」だと考えていました。
無意識の中にあるその強い願望が動物や虫への変身譚の奥にあるものだと考えます。そんなに強い願望でなければ、人間から人間への変身にとどまるでしょう。<中略>動物へ変身しちゃうっていうところまで徹底的に一人称のように描写してしまうことの中には、たいへん強い死への願望みたいなものがあるんじゃないかと思います。
吉本隆明『未収録講演集8〜物語と人称のドラマ〜』
太宰治論(P277より)
もちろん本当かどうかは僕は分かりませんが、太宰が生と死の「境い目」をふらっと超えてしまうような、そんな作家だったのは確かだと思います。
太宰治は紛れもなく国民的作家ですから、この感覚を天才的作家のそれだと考えてみると、実は響の行動はまさにその通りのものだと言うことが分かります。暴力性に安直にキャラ設定を結びつけてしまったのはいただけませんが、この「生と死の境い目」をふらっと超えていくような雰囲気は響は持っていますし、何よりそういう行動も多少大げさではありますが何度かしています。そしてそれらは暴力性とは切り離して考えられるものです。この点に関して、響の天才性はしっかり表現されているのではないでしょうか。
もう1つ響の天才性がよく表現されている部分があります。それは「怒り」です。響は異常な暴力性を持っていますが、それは「怒り」の感情に突き動かされてであることが多いです(喧嘩を売られて勝っただけ、というシーンも多いですが)。我々は「怒り」とは正直みっともないものだと考えています。人様の前で顔を赤くしてブチ切れたり、暴力を振るうのはみっともないですよね。僕もそう思います。しかし怒りとは人間の感情の中でも最も純粋なものの1つなのです。ここからは西尾幹二の全集14巻、『人生の深淵について』に詳しいのですが、人は本当の意味で心の底から怒りを発することはまずありません。日々のイライラに悩まされることはどんな人でもあると思いますが、政治的効用を期待しない純粋な怒りを発する人はほぼいないと思います。例えば会社の労働環境が良くなくて労働者がストライキに出たとしましょう。これは俗に労働者が「怒りの声」をあげたわけですが、この「怒り」とはなんなのか。少なくともこの場合、「怒り」というのは政治的目的達成の手段として用いられています。ここだと「労働環境の改善」ですよね。その目的を達成するために計算ずくで導入された「政治的怒り」です。政治的怒りは計算高く作らなければあまり意味がありません。何故ならストライキで怒りの声をあげる人々に取って重要なのは怒ることではなくて、労働環境を改善することが最も大事だからです。ですが、計算高い怒りがほんとうの意味で純粋な怒りだと言えるのでしょうか。政治的な怒りというのは持続性がなければいけません。持続的にやらないと目的が達成されないからです。一瞬怒ったくらいで物事は変わりませんもんね。怒り続けないといけない。しかしながら、怒りの純粋性はそれが発露した瞬間にしか存在しません。怒りとは元来は突発的で、理性を含んでいない感情のはずです。西尾は「それだからこそ怒りには人間のある純粋性が看取されるのである」と言います。
怒りはある程度持続すれば、すでに純粋ではあり得ない。それは妬みとか焦りとか怨みとか憎しみとかに秘かに席を譲る。
西尾幹二全集14『人生論集』P14
響の感情は西尾の言う、まさに純粋な「怒り」だと思います。友のために怒るシーンも多いのですが、それも含めて響の怒りは「世界と自分との齟齬に耐えられない」という怒りだと感じます。政治的目的達成を第一としない、完全に一人称視点の怒り。その瞬間の自尊心の欠落や、世界と分かり合えないことへの憤りを一瞬で発散させる。それがたまたま暴力性を介して発露する。見ているとそんなふうに見えてくるのです。その証拠に一通り相手をぶん殴り終わったら響はかなり冷静に戻ります。怒りの純粋性を失ったら怒り自体が消えるのです。
この2つを見ると、響というキャラクターは当初思ったよりも非常に「天才性」を良く表現できたキャラクターなのかもしれない、と感じられます。今後どのようにストーリーが進んでいくのか気になりますが、引き続き読んでいきたい漫画であることには違わないです。
僕はこういうことを一通り考えた後に「漫画を読むのも良いものだな」とつくづく思います。読んだもの、見たものに対して、取り敢えず言葉を尽くしてみる、という態度。何かを「良い」「悪い」と判断する基準は必ず根本に非言語的・非論理的領域を内包しています。いつかは「語り得ぬもの」に帰する。しかし、そこに接近しようとする試みは忘れないでいたいものです。
さて、僕はそろそろ勉強に戻ります。最近勉強欲が湧いてきました。また何か書けるタイミングになったら書こうかと思います。僕はあまり勉強が好きではありませんから、ゆっくり、自分のペースでやることにします。ではまた。
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