吉本隆明

読書の秋というわけではないですが

個別指導の学習空間,八千代大和田・佐倉臼井教室の小西です.

 僕は吉本隆明という思想家が好きで,全集も集めています.ですが大変むずかしいものでして,実際最後までちゃんと読み通した著作は実は数えるほどしかありません.先日,Twitterの方で哲学者の芦田宏直先生から「今から読み始めるなら『マチウ書試論』と『転向論』あたりからがいいですよ』とアドバイスを頂いたこともあり,久しぶりにやる気になって取り敢えず『マチウ書試論』を読み出しました.僕が吉本隆明を知ったのは芦田先生の著作『努力する人間になってはいけない』からでしたので,ご本人から返信いただけたとあっては読むしか無いでしょうというテンションです.『転向論』は1回だけ読み通したことがあったので.(ちなみに芦田先生は12月発売の吉本隆明全集第3巻の月報を書かれるそうです.今から楽しみです)
 でもこれ最初は全然分からないんですね.もう本当に分からない.『マチウ書試論』といえば「関係の絶対性」という文言が有名ですが,まだそこまでたどり着いておりません...じゃあブログなんか書くなよって話ですよね.(ネタがなかったんです(泣))
 何も知らない人が初見でこの本を読むと最初の5行くらいで意味不明になります.まず「マチウ書」ってのが何なのか分からない.「ジェジュ」も誰なのか分からないし,「予約」という言葉の意味も全然分からない.とにかく何もわからない中でページを捲らないといけない.しかし読んでいるうちに,「マチウ書」は「マタイ伝」のことであって,「ジェジュ」は「イエス」のことだとわかります.でも「予約」っていうのが何のことなのかやっぱりまだ分からない.そして,『マチウ書試論』はいわゆる知識人論なんですが,なんでマタイ伝なんかを取り上げて壮大な論を展開しないといけないのか...読みにくい...こんなんを当時の大学生たちは必死になって読んでいたのか...(けなしているわけではないです)

 ということで先週末は四苦八苦していました.マタイ伝もそういえば読んだこと無いので無料のpdfで全部印刷して,横に置いてちょくちょく参照しながら並行して読んでいるのですが,読み通しても何回か繰り返さないと理解はできなさそうです.また何か書けそうなら書いてみたいと思います.最近は頭をつかう読書というものを全くしていなかったので(不勉強ですみません),久しぶりに楽しみが増えました.

 さて,佐倉臼井教室の方では中間試験の結果がだいたい出揃いました.塾生の入塾前の平均点244.1点,今回の中間の塾生平均が300点程度(まだ数名結果が不明な生徒がいるので正確な数字は出せません)でしたので,塾生平均として入塾前より55点程度伸びている事になります.「やるじゃん!頑張ったじゃん!」という感じです.特に今まで点数が取れていなかった生徒にはとにかく勉強すればそれなりの点数が取れるようになるということが分かっていただけたと思います.次回以降もやるべきことをやっていきましょう.「やる気」ではなく,「やるべきこと」を淡々とやることです.

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言葉の彩 Part1

個別指導の学習空間,八千代大和田教室・四街道東教室の小西です.

今回だいぶごちゃごちゃしたことを書きます.
早いものでもう11月です.日曜日は同じ大学の後輩でもある,予備校講師の大塚先生とご飯をご一緒させていただきました.フリーでご活躍されている先生なのですが,やはりフリーでやっていくっていうのは生半可な覚悟ではダメなんだなと会話をしていてひしひしと感じました.私も精進しなければ.

話をしていた中で思ったのが,「言葉の機微」というものにもっと感性を磨いて欲しいということ.私の古い友人で大阪の中学校教員の方が,以前お話したときに「最近の中学生は皮肉を理解出来ない」と仰っていました.皮肉とは広い意味で考えれば一種の比喩表現のようなものですが,比喩というのが生徒にとって分かりにくいものなのか,と最近私も感じています.そもそも比喩というのはなぜ成立するのでしょうか?吉本隆明の「詩人論序説」の内容を自分なりに理解したものと織り交ぜながらお話してみます.「詩人論序説」は単行本化はされていませんので,興味のある方は『吉本隆明全著作集5』または『吉本隆明全集6』,あるいは中身が書き改められて同じ論考が内部に組み込まれている『言語にとって美とはなにか』を読んでみてください.また,僕はアマチュアですので吉本の論を正しく理解していない可能性が大有りです.「ほんとに読んだのかよこのすかぽんたん」とかは言われても「いやわい素人やし」って言うしかありませんのでそこんとこご了承下さい.

まず言葉には,それが生み出す像が各個人によって異なるということが言えます.「詩人論序説」の例を出すと,「恋人」という言葉によって喚起される像は人によってまったく異なります.ある人は小柄で美形な女性の像を思い浮かべるかもしれないし,ある人は大柄の角刈り男性を思い浮かべるかもしれない.初老の蝶ネクタイをした紳士かもしれないし,ブレザーを着たロングヘアーの女子高生かもしれない.どのような像を思い浮かべるかはその人の今までの人生経験に完全に依存します.しかしながら,それらの具体的像はすべて「恋愛の対象となる異性」という意味において共通しています.絵で書くとこんなふうになるかなと思います.

2015-11-04 13.50.59

数学やってる人には伝わると思いますが,写像の図ってイメージです.言葉そのものから各人の人生経験という写像でもってして言葉がその像へと移される.でその値域はぼんやりとした集合に囲まれていて,そこが言語の辞書的意味であると.

もう1つの言語表現の特徴としては,現実の像は無限に多くの言語表現を可能とするということが挙げられます.これも同じく「詩人論序説」の例をだしますと,例えば野ばらに白い花が一面に咲いている光景を視たとします.そうすると言葉に発する発しないを別にして何らかの言語表現をするわけですが,それは人によってそれぞれ異なります.例えば「白い」と感じる人もいれば「美しい」と感じる人もいる.香りを嗅ぎとって「いい香り」と感じるかもしれないし白い花に良い思い出のない人なら「醜い」や「汚らわしい」とさえ感じるかもしれません.また同じ人でも見るときによって感じ方は違うでしょう.このように自分の中から出てくる何者かを対象としていない言語表現を指示表出と吉本は言います(これも僕の理解です.間違ってたらすみません).このように視覚的対象が同一でも,無限に多くの関係性の側面から事象を把握し,表現することができます.八百万の神のようですね.そしてこの無限に多くの言語表現と先程の,各言葉から生み出される無限に多くの像が結びつき,これが比喩が成立する原因となるわけです.

とすると,比喩などを直感的に理解する言語能力が乏しいということは,この3つのどれかが育っていないということになるのかなと思われます.1つは対象の定義の理解,1つはそこから生まれる像の形成,もう1つはものを見聞きしたときの自己表出です.
まず対象の定義の理解.定義と大仰に書きましたが,要するにそれが何なのか知ってるかってことです.「花」なら何回か見れば「花」がどういうものかは分かるでしょうし,さすがにこれはクリアーです.てことは問題は残りの2つにあるのかなぁ.像の形成と自己表出.この2つは言語的・非言語的な経験に大きく依存すると思われます.自己流でも良いので何か言葉や事象を見聞きしたときに,何かしらの像を結べるか,自己の内部に印象を持てるか.分かりやすく言うとこういうことかと思います.そのためにも幼少期はとくに色んな物を見たり聞いたりするのが良いのでしょう.

よく国語,とかく現代文は論理の科目だと言われます.論理的に文章を読めば必ず正解にたどり着けると.僕は国語は専門外であまり明るくございませんが,これだけ流行ってるのだからもちろん,そのとおりでしょう.しかし,それだけではダメだとも思います.あくまで論理で現代文を解くのは一種の流行り.論理を使えば取り敢えずは誰がやっても客観的に答が出たように見える(実際出ているのでしょうが)ので持てはやされているに過ぎないのだと感じます.ましてや小中学生には論理なんてなかなか分からないのではないでしょうか.

疲れたのでこの辺で終わりにします.続くかも.

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