哲学

知能検査は「可能性」を否定しうるのか

個別指導の学習空間、四街道東教室教室長・佐倉臼井教室講師の桑原です。

以前発達障害を取り上げた記事の補足になります。
「できない」は「失敗」?

発達障害に関して知見を広め「学び」の姿を考え始めてから、はや1年が経とうとしています。発達障害ポータルサイトの方とお会いさせていただく機会を頂いたり、発達障害当事者(以下、当事者)の方や発達障害や精神疾患を抱える保護者の方との意見交流会に参加したりと、気がつけば様々なイベントに参加していました。当事者目線でみて抱える課題点や当事者の周りの人の目線で見た課題点を討論してきました。その中で頻繁に課題として挙がるのが「発達障害に対する『悲観的」な捉え方」でした。
世間には否定的な見方が強く残っているのが現状であり、その認識こそ課題であるという印象が残ることが多かったです。
当事者が発達障害に対して悲観的な見方でとらえていなくても、周りの人が悲観的な見方でとらえている(触れないほうがいいものとしてとらえている)ことは少なくないような印象を受けました。
当事者が個々に持っているさまざまな特性が理由で、全体的に集団行動の中で浮いてしまうことを多く経験されているようで、「他人より自分が劣っている」という見方になってしまう人も少なくないようです。
約80人ほどの発達障害に関係する方々と交流してきましたが、「なかなか自分に自信を持てない」「悲観的な考え方にとらわれてしまう」という悩みを多く耳にしました。

さて、発達障害の診断には大きく分けて2つ必要なことがあります。
1つは幼少期からの発達障害の兆候を細かくまとめておくことです。なんでも、発達障害は脳機能の欠陥による障害なので、大人になるにつれて他の病気などと結びついて合併症のようなものとなり複雑化しやすいために、幼いころの兆候をもとに診断を下すそうです。

もう1つは、WAIS(ウェイス)と呼ばれる知能検査です。皆さんはWAIS(ウェイス)という言葉を聞いたことはありますか?
簡単に言うと、知能の発達の度合いを検査し、自分の特性を理解するもので、さまざまな試験を受けていく中で知能指数(IQ)を測っていくものです。

・知能指数の分類
言語性IQ(VIQ)・・・単語や抽象的な概念(目に見えないこと)への理解力
動作性IQ(PIQ)・・・状況変化への柔軟性
全検査IQ(FIQ)・・・上記のIQの総合した値

被験者はたくさんの小さなテストを受けていき、それらのスコアをもとに知能指数を出し、「情報の処理速度」「言語理解」といった能力の指標も点数付けされていきます。
自分の特性を知った上で物事に当たることができるので、成長につなげたり、ストレスを回避することに備えておくことができます。
人は自分の課題や特性を理解した上でうまく立ち回れるので、対応策を考えられるのとそうでないのでは雲泥の差がありますね。「よく〇〇を小さい頃から指摘されていて、なんかうまくいかない」ということに脳機能の面から理由付けをして立ち回れることは、一つの解決策になりますね。

ただ、知能検査の結果を過信しすぎて、何でもかんでも理由付けができてしまうような錯覚に陥ってしまうほど、信頼できるデータなので、自分の「できないこと」をしっかりと自覚させられてしまう側面もあります。自分の人生にとって大きな武器となることは間違い無いのですが、「できるかもしれないこと」までも否定してしまう可能性は大いにあるので、うまくいかないときの言い訳として機能させすぎないように気をつけたいですね。言い訳として便利すぎる理由は、何に対しても説明として使いやすい面をもっているので、ある意味で思考停止状態ということもできます。

つまり、知能検査をうけることで「うまくいかないこと」に説明をつけられるが、「やってもうまくいかないかもしれない」という可能性の否定につながり、物事を悲観的に捉えてしまいがちになる、ということです。

 

私は発達障害という診断が下っていないので、当事者の悩みや気持ち、生活上の困難に対して共感することはできませんが、それらを理解することはできます。「できないこと」は常に「できないこと」であり「できないまま」であることは理解できます。ただ、何でもかんでも「できるかもしれないこと」すらも「できないまま」としてしまう思考には一考の余地があるかもしれません。苦手があっても、自分の可能性は否定するべきではないですよね。特性を理解した上でも、人生を楽しむためにはなにかに「やってみる」ことは必要不可欠なので、チャレンジすることや失敗を恐れないような環境を作ることは社会でも塾でも大切なことですね。

それではまた。

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良い先生とは?~「先生」のもつべき要素とは~

個別指導の学習空間、四街道東教室教室長・佐倉臼井教室講師の桑原です。
今年もあと少しで終わりですね!学習空間では冬季講習が始まっており,受験生の追い込みの時期に携わっています.
毎年思うのが,生徒たちの「顔」の変化です.退路を断たれて焦る気持ちに,勉強するという覚悟で応戦しています.
桶狭間の戦いにおいて奇襲をかける前の織田信長のような,「覚悟をするしかない」状況に自分を追い込んでいるのです.
覚悟を顔から感じる生徒は最直前になったときに成果が反映される印象があります.
そのような環境の変化に決して胡座をかいてしまわぬように,前を見て目標を見失わぬように,塾講師とは淡々と生徒に向き合わねばならない時期です.

さて,今日は塾を選ぶ際のポイントとして「良い先生の見つけ方」について話していきたいと思います.
以下項目ごとに話題をあげていくので,皆様の先生選びのポイントになったら幸いです.

① 勤勉であること
勉強の仕方を教えるわけですから,先生自身も学び続ける姿勢を保たねば,生徒に対して無礼です.
「勉強を教える」・「点数を上げる」だけではなく「思考を教える」という側面も持ち合わせているのがわれわれ塾講師なので,どれだけ生徒に対し真摯に向き合っているかの指標はここにあるのではないでしょうか.
ただ,「良い先生」は「生徒との距離を近づけるため」にではなく「適度な距離を取る」ために勉学に励んでいるので,生徒の気持ちにばかりすり寄る先生は良い先生と呼べないでしょう.

② 思考の柔軟性
他者や生徒からどれだけ学び取り,状態を察知して動くのか.
また,自分に足りない情報を生徒のために学んでいこうと思えるだけの行動力を持っていることは重要な要素としてあげられます.
「ムリ」「厳しい」からといって生徒の成長限界を決め打つのではなく,他の分野から多角的に選択肢を模索する行動力こそが講師としての力量を決めます.

③ 謙虚であること
②とやや内容が被るのですが,他者や生徒に対して真摯な教育を施すのであれば,自分の実力や実績に満足せず,謙虚な姿勢を保ちつづけることが重要です.
謙虚さがないと物事をフラットに取られることができないので,柔軟な思考で物事に対するために必要な要素だと感じます.

④ 生徒の努力に敬意を払えること
勉強を教える立場を何年かやっていると,生徒に対して,自分が勉強するときと同じ気持ちで解いていると錯覚してしまうときがあります.
「学び取る」という感覚は生徒一人一人,ひいては人間一人一人違うはずなので,「自分こそが正しい」という感覚は危険極まりないのです.
また,勉強に対して理由を持って定義づけをしているのならば,それは哲学であると呼べるので,そこに対してどれほど敬意をはらえるか.
生徒が「こういうやり方で勉強を進めよう」と漠然と感じていることだって哲学と言えます.
続けていることに対しては敬意を払うべきで,結果が伴っていないだけでぞんざいに扱われるのはフェアな扱いではありません.
趣味や部活動は続けることこそ正義,といった論調で語られるのに対して,勉強には続けることに敬意を払われることがないのはおかしいですよね.
少し話がそれましたが,こういった生徒の哲学に敬意を払いつつ自分のできることをするのが良い先生と言えましょう.

⑤ あきらめないこと
生徒は熱しやすく冷めやすいです.モチベーションが上がるときがあれば反対に落ち込むときだってあります.
落ち込んだときにも,先生があきらめないことは重要なスキルであると言えるのではないでしょうか.
また,あきらめが悪いからこそ教育に携われるところはあります.生徒の成長限界を決め打ちせずにできるところまでしっかり伸ばしていく.
理想論ではありますが,理想なくして教育なしです.

私は生徒に依存されない塾を目指していて,一番大切にしていることは「生徒に選択をしてもらう」ことです.
勉強しなくて助かるのも困るのも自分次第.やると決めたら素直にやりきる覚悟を持って臨んでいけるように,環境を整え,勉学に励み,日々己を磨いている最中です.
長くなりましたが,なにか参考になるところがあれば幸いです.では,また.

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歴史を勉強しています

こんばんは、学習空間八千代台・習志野藤崎教室の高橋です。

最近新たなハマリ事として、世界史を勉強しています。
全年代好きなんですが、特に現代ヨーロッパ史が面白いですね(昔は中世ヨーロッパの独自な雰囲気が好きだったんですが)。
なぜ、この勉強が面白いかというと

1.「今からは想像もつかないようなことが、実際に起こった」ということを学べるから。
2.その出来事に対して、複数の角度から解釈できるから。

の二点に尽きます。例えば、私が中学生の頃は太平洋戦争についてこんな風に述べられるのが一般的でした。

⓵「日本は中国や韓国、その他のアジアの国に侵略行為を繰り返し、これがアメリカの目にとまった。
アメリカは日本の侵略行為をやめるように忠告したが、日本はこれに応じなかったため日米開戦に至った。」

ところが最近、当時の日本の記述を見てみると、次のように書いてあることが多い気がします。

⓶「日本は西洋列強からアジアの国が独立することを目指していた。そのため、『大東亜共栄圏』を提唱し中国や韓国をはじめとするアジアに軍をすすめた。それを見たアメリカは日本の進出を阻止しようとしたが、日本はこれに応じず開戦となった。」

⓵と⓶は明らかに異なる立場で述べられていることがわかります。どちらが正しいかという議論は無意味です。どちらの立場に立つか、と言われれば私は正直に「わからない」と答えます。しかし、確かなのは同じ事象でもこんなに違う解釈が生まれるということです。
実はこれって、文系の学問の面白いところだと思います。文学にしろ、歴史学、社会学そして言語学にしろ(「実学寄り」な法学と経済学は個人的に別だと思います。違ってたらゴメンナサイ。)まず現象があって、その次に必ず「解釈」を行います。そして、その解釈が「間違っていない」ことを示すためにいろいろ頑張る。とはいえ、この作業の最終目的は「今まで見えなかった糸の一本」を発見することであり、「一見関係のない複数の事柄」の間に関係性を見出すことです。ここは理系の学問との違いだと思うのですが「AはBである。」と言い切るのではなく「AとBは意外と関係してるんだね。」程度で十分学問として成立します。それほど縛りがきつくないのですから、文学とファッションを関連付けたり、歴史学と言語学と宗教学を結び付けたり、理系の学問すら取り込んで、歴史学と言語学と生物学みたいな異色コンボも可能なわけです。
ちなみに具体例として、私が大学院生だった時にお世話になった先生の一人に、「ナチス」と「身体文化論(ダンス)」と「建築」を結び付けて研究している先生がいらっしゃいました。たしかに話を聞くと、全然関係がなさそうな先の三つが関連性を帯びてくるのです。

実学を重視する立場からすれば、「そんなコジつけの学問に何の価値があるのか」と言われそうですが、せっかくいろいろな事象が複雑に絡み合っている世の中で我々は生きているのですから、「コジつけられるだけコジつけてみよう。そうしたら、その中のいくつかは将来凄い発見になるだろう。」と強く思います。ではまた~。

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楽器と脳

個別指導塾 学習空間 八千代台,習志野教室の高橋です.

最近も相変わらず寒い日が続いてますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。こちらは、三年生の受験がやっとひと段落、久しぶりに休みを満喫しておりました。
さて、私の趣味はチェロを弾くことですが、かれこれ半年ぐらいずーっと忙しくてなかなか引く時間がありませんでした。
楽器(特に木でできている楽器)というものは弾かない時間が長くなれば長くなるほど、音の鳴りが悪くなっていくものです。というのも、木製の楽器は毎日引くことによって、音の振動で木材内部が柔らかくなり、この柔らかさが豊かな響きを生むからです。案の定、かつて弾いていた時のチェロの音色を取り戻すために、数日間ずっと楽器のリハビリをしていました(なので、演奏を楽しむどころではありません)。

さて、このような現象は人間の脳みそも同じようにおこると思っています。毎日使わないと「頭がかたくなる」と言われるのは、まさにこのことだといえるでしょう。やわらかく、柔軟さに富む脳を維持するためにも、みなさんも我々講師も毎日頭を使い続けたらと思います。ただし、脳みそは楽器と異なり、一度硬くなったらそう簡単に元には戻らないそうです(これを専門用語で「化石化」といいます)。また、そのリハビリにかける十分な時間があるかといえば、それもなかなか難しいです(特に学生時代が終わってしまい、社会人になると本当に時間がありません)勉強といわれるものは、要は頭の体操のことです。脳がかたくなって化石にならないように、つねに「勉強」でマッサージしておきましょう。

ではまた~

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「ラクな発音」を求めて

学習空間習志野藤崎・八千代台教室の高橋です。

またの名を語学大好きっ子の高橋です(最近は数学も好きです)!!
ものすごく久しぶりのブログなので書くことが思い浮かばない!!
なので、私の独断と偏見でちょっと語学的な話をしちゃいます。
何語の話しかって、第一回目は、とりあえず日本語の話です(笑)。

さて、みなさんはなぜ、「日本語のハ行」には「パ」のように「マル」があるかご存知でしょうか。それ以外の行は「バ」のように「テンテン」だけですよね。この謎を解くカギとして江戸時代にこんななぞなぞがありました。

Q.はは には二回あうけど、ちち には一度もあわない。それは何だ?









答えは「唇(くちびる)」です。

なぜか??実は、江戸時代に「は」という文字 [ha] ではなく [pa] と発音されていました(ちなみに「ば」は今と同じで「ba」と発音されていました)。「ぱ」と発音してみると分かりますが、確かに発音する際に唇がくっついていますね。一方「ち」はどう頑張っても唇が合う事はありません。そして、意外なことにこの時点では現在の「は」の音、つまり [ha] という発音はまだ日本語にはありませんでした。

ところで、人間はストレスが多いのと少ないのなら、少ない方が好きですよね。言葉の発音の変化も似ていて、ストレスがより少ない発音方法へと変わっていく傾向があります。いちいち口を閉じて、息をため込んで一気に吐き出す [pa] よりも、最初から口をあけて、息を出す [ha] の方が楽だと言う事になって、現在の「は」の発音へ変わって行きました。そこで、じゃあもともとあった [pa] の発音を表すにはどうするかという事になって「マル」を付けることにしたのです。このような経緯で改めて「は」は[ ha]、「ぱ」は [pa] と発音するようになったのです。「ハ行」と「パ行」の知られざる歴史といったところですか。

ちなみに、更に面白いのが、「pa」から「ha」へと発音が変わっていく中で、通過点として「fa」という発音がありました。実際に発音してください。「ふぁ」。唇は完全に閉じているわけでもないし、だからと言って開き切っているわけでもないのが分かります。この「pa」から「fa」への変化を見ると、ヨーロッパの言語の歴史が分かります。ヨーロッパの言葉の多くはもともとラテン語だった単語をたくさん含んでいますが、その中に、pater(神父) という単語があります。[pa]は[fa]だから、置き換えると…fater。英語の ”father” という単語はここから来ています。その他にもラテン語の”pisces (魚)” から英語の”fish”などがあります。

やっぱり楽な発音に変えたいと言う人間の怠け癖は、世界共通のものなんでしょうね。では、今日はこの辺で、また機会があれば、語学トークをしたいと思います。ではまた~。

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蝉、恋

個別指導塾の学習空間、習志野藤崎教室の高橋です!

またの名を語学大好きっ子の高橋です(最近は数学も好きです)!!
今回は、蝉のお話からスタートです。なんで蝉か、って??
それはあれだけ声高に歌っていた彼らが、ほぼ全滅状態だからです。

もともと日本には、ごく短い期間だけ派手に現れて、間もなく終焉を迎えてしまう、そういうものが多いと思います。例えば、桜や梅雨、紅葉(最近ではますます見なくなりましたが)などがそうですね。

そして、蝉もその一つだと思います。土の中で長い年月を過ごし、やっと地上デビューして花々しく活躍した矢先、たった一週間ちょっとの命です。たぶん土の中には、地上デビューを持ち詫びながら必死にボイストレーニングしている蝉もいれば、ぬくぬくした土の中がむしろ好きでモチベーションが最後まで上がらなかった蝉もいるでしょう。でも、必ずどの蝉に対しても、その時は来ます。もっとも、ごく短い間ですが。

ところで、これって受験と似ていませんか。試験本番に向けて、合格するために必死に勉強している人。高校入試なんて何であるんだろうと思いながら、中々勉強に向き合えない人。でも、誰に対しても入試の日は必ず来ます。そして、当日の試験はたった5時間で「終了~」です。

もちろん私は塾の講師という立場上、「どうせ一瞬で終わる試験なんだから、日頃からモチベーションを上げて十分に準備しておきなさい」と前者の立場の人を応援し、後者の立場の人は、すぐにでも自分の立場を改めるように諭します。

そして、今回伝えたかったのは、「蝉と受験の話」だけではなく、我々の一生にどれだけの「刹那(せつな)」が溢れているか、ということです。一時だけブワ~っと燃え上がり、気付いた時にはシュンと消えてしまう、だからこそ価値がある。これを「刹那」といいます。桜も、梅雨も、蝉も、紅葉も、受験も、そして...恋...さえも全て「刹那」です。そしてこの「刹那」という言葉は、おそらく、外国語には上手く翻訳できないような日本独特の表現です。ですから、みなさんも日本で勉強している以上、刹那の時間を大切にしていきましょう。

ではでは~

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